野茂投手が引退を表明しました。
ただただ寂しい限りです。゚(゚´Д`゚)゚。
いつかはこんな日がやって来るとは思っていましたが・・・。
(以下、敬称略)
私は野茂が近鉄で活躍していた頃、バファロースのファンクラグに入っていました。
(ちなみに阪神の公式ファンクラグが創立されたのは2003年
18年ぶりの優勝を果たしたその年の暮れです)
藤井寺球場へも足を運びました。
あの頃の近鉄には金村や新井・ブライアント・石井・大石といった面々がいました。
ブライアントのHRはそれはそれはドでかくて気持ちの良かったものです。
話は逸れましたがメジャーのパイオニアについて書きたいと思います。
野茂と言えば当時西武に在籍していた清原との勝負が
今でも色濃く目に焼き付いています。
「平成の名勝負」と謳われたものです。
何時だったか忘れましたが、西武球場での開幕戦での話です。
9回裏の時点で近鉄はリードしていました。
迎えるバッターは4番清原。
野茂は当然真っ向勝負に行きました。
そして見事清原にサヨナラHRを打たれました。
私は近鉄が好きって訳じゃなく野茂が好きだったので
近鉄がサヨナラ負けを喫しても悔しくはなかったですね。
だって「男と男のガチンコ勝負」でしたから。
野茂はその後、輝かしい新人時代とは裏腹に調子を落として行きます。
入団当時の監督は「漢・仰木彬」でした。
しかし野茂が調子が悪かった年は「草魂」で有名(?)な鈴木啓二でした。
メジャーへ行く前の年に野茂は1試合16個ものフォアボールを出し
2軍落ちしました。
その後、皮肉な事に近鉄は13連勝(だったと思います)し
監督の鈴木啓二は
「野茂なんかおらんでもこんだけ勝てるんや、あいつはもう要らん!」と言い放ちます。
スポーツ新聞の裏一面(表一面は勝っても負けても関西では阪神)
だったのでよ~く覚えています。
野茂と鈴木啓二が合う筈もなく、野茂は渡米を決めます。
あの頃のマスコミは野茂に冷たく、現在の様な環境ではありませんでした。
でも私は野茂を信じていました。
その後のメジャーでの大活躍(ノーヒットノーランを2回も達成等)は割愛します。
デビューから引退まで「生きる伝説の野球選手」を見る事が出来て幸せです。
野茂は本当の大リーガーだったと思いますし、彼こそ本物の侍でした。
※近鉄時代、野茂が住んでいた所は私の家から車で10分位の所です。
逸話が沢山ありますが、それはまた後日。

私が着古してヨレヨレになったNOMO Tシャツです。
私は野茂英雄の事を一生忘れません。
波乱万丈の野球人生、お疲れ様でした。
そして、ありがとう。

野茂英雄。

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今度はIE7よりテスト
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